源頼朝像(源氏山) 源頼朝の鎌倉入り800年を記念して建てられた像です。http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page137genjiyama.htm |
源頼朝は、1147年(久安3年)4月8日、源義朝の三男として誕生します。
母は、由良御前(尾張国の熱田神宮大宮司藤原季範の娘)。
幼名は鬼武者。
三男ですが、母の家柄から、兄義平や朝長を抜いて、義朝の後継者として育てられていたようです。
★伊豆蛭ヶ小島へ
1159年(平治元年)、京都で「平治の乱」が勃発します。
この時、頼朝は13歳。
父義朝とともに平清盛と戦いますが、結果は、義朝の大敗に終わります。
義朝は、再起を果たそうと東国に逃れようとしますが、逃亡途中の尾張国で家臣長田忠致の裏切りに遭い、暗殺されてしまいます。
頼朝も義朝に従っていましたが、途中で一行とはぐれてしまい、平家の家人平宗清に捕らえられてしまいます。
平清盛のいる六波羅に送られた頼朝は、処刑されることになりますが、清盛の継母池禅尼の懇願があって命は助けられました。
その後、伊豆国の蛭ヶ小島に流されます。
(参考:平清盛と源頼朝)
頼朝と政子の像 蛭ヶ小島に建てられている像です。2人は、1177年(治承元年)頃には結婚し、 間もなく長女大姫が生まれています。 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/hirugakojima.htm |
蛭ヶ小島 | 毘沙門堂 | 香山寺 |
真珠院 | 願成就院 |
★挙兵と鎌倉入り
それから、20年の月日が過ぎました。
京都の情勢も大きく変化し、新たなリーダーを望む声も大きくなる中、頼朝のもとに、以仁王の「平家追討の令旨」が届けられます。
そして、1180年(治承4年)8月17日、頼朝は、源氏再興の挙兵を果たします。
まず、伊豆国の目代山木兼隆を討った後、相模国を目指します。
(参考:源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃)
石橋山の戦いでは、大敗してしまいますが、安房に渡って体制を建て直した頼朝は、10月6日、大軍を率いて鎌倉に入りました。
『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵
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★源氏ゆかりの地:鎌倉
頼朝の先祖源頼義は、平直方から鎌倉の地を譲り受けます。
1063年(康平6年)には、京都の石清水八幡宮を勧請して、由比若宮を建立しました。
由比若宮(元八幡) 頼義創建の由比若宮は、現在も材木座に鎮座しています。http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page135motohatiman.htm |
また、頼義は、長谷の甘縄神明神社で祈願したことで、子の義家を授かったといいます。
甘縄神明神社 染屋時忠の創建といわれ、鎌倉で一番古い神社と伝えられています。 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136amanawa.htm |
新羅三郎義光(源義光)は、京都の祗園社を勧請しました。それが八雲神社(大町)のはじまりと伝えられています。
八雲神社(大町) 鎌倉最古の厄除け神社といわれています。http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043yakumo.htm |
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