2011年9月9日金曜日

源頼朝・・・配流・挙兵・鎌倉入り

源頼朝像(源氏山)
源頼朝の鎌倉入り800年を記念して建てられた像です。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page137genjiyama.htm


源頼朝は、1147年(久安3年)4月8日、源義朝の三男として誕生します。

母は、由良御前(尾張国の熱田神宮大宮司藤原季範の娘)。

幼名は鬼武者。

三男ですが、母の家柄から、兄義平や朝長を抜いて、義朝の後継者として育てられていたようです。


★伊豆蛭ヶ小島へ


1159年(平治元年)、京都で「平治の乱」が勃発します。

この時、頼朝は13歳。

義朝とともに平清盛と戦いますが、結果は、義朝の大敗に終わります。

義朝は、再起を果たそうと東国に逃れようとしますが、逃亡途中の尾張国で家臣長田忠致の裏切りに遭い、暗殺されてしまいます。

頼朝義朝に従っていましたが、途中で一行とはぐれてしまい、平家の家人平宗清に捕らえられてしまいます。

平清盛のいる六波羅に送られた頼朝は、処刑されることになりますが、清盛の継母池禅尼の懇願があって命は助けられました。

その後、伊豆国の蛭ヶ小島に流されます。

(参考:平清盛と源頼朝


頼朝と政子の像
蛭ヶ小島に建てられている像です。
2人は、1177年(治承元年)頃には結婚し、
間もなく長女大姫が生まれています。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/hirugakojima.htm



蛭ヶ小島

毘沙門堂

香山寺

真珠院

願成就院



★挙兵と鎌倉入り


それから、20年の月日が過ぎました。

京都の情勢も大きく変化し、新たなリーダーを望む声も大きくなる中、頼朝のもとに、以仁王の「平家追討の令旨」が届けられます。

そして、1180年(治承4年)8月17日、頼朝は、源氏再興の挙兵を果たします。

まず、伊豆国の目代山木兼隆を討った後、相模国を目指します。
(参考:源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃

石橋山の戦いでは、大敗してしまいますが、安房に渡って体制を建て直した頼朝は、10月6日、大軍を率いて鎌倉に入りました。



『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵

源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃
源頼朝挙兵の日
源頼朝相模国へ進軍~従った武将は・・・~

三浦一族の進発~石橋山の戦い~
源頼朝の敗戦~石橋山の戦い~
源頼朝を助けた武将たち~石橋山の戦い~

源頼朝・・・真鶴から安房へ


先陣を切って討死した佐奈田与一義忠~石橋山の戦い~
石橋山の戦いと衣笠合戦~三浦義明の討死~
渋谷重国と佐々木四兄弟~石橋山の戦い~
明暗が分かれた大庭兄弟(景親と景義)~石橋山の戦い~
梶原景時と石橋山の戦い
母の哀訴に命を救われた山内首藤経俊
法華経を読み続けた長尾定景~石橋山の戦い~

源頼朝大軍を率いて鎌倉入り



★源氏ゆかりの地:鎌倉


頼朝の先祖源頼義は、平直方から鎌倉の地を譲り受けます。
1063年(康平6年)には、京都の石清水八幡宮を勧請して、由比若宮を建立しました。


由比若宮(元八幡)
頼義創建の由比若宮は、現在も材木座に鎮座しています。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page135motohatiman.htm


また、頼義は、長谷の甘縄神明神社で祈願したことで、子の義家を授かったといいます。

甘縄神明神社
染屋時忠の創建といわれ、
鎌倉で一番古い神社と伝えられています。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136amanawa.htm


新羅三郎義光(源義光)は、京都の祗園社を勧請しました。それが八雲神社(大町)のはじまりと伝えられています。

八雲神社(大町)
鎌倉最古の厄除け神社といわれています。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043yakumo.htm


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